昨日は、大学院ゼミの発表日だったんだけど、なんと振り分けられ、発表は年2回になってしまった。なので、私のは次回7月と11月のみ。ここで、どこまで方向性を明確にできるのだろう。心配でしかない。。
2024/05/07
2024/05/06
5/6 四川麻辣の蛙鍋
午後良いうか夕方中国についた。往路の時のようにトランジットビザを無料で発給していただき、もう一度上海へ上陸。といっても明日朝早いので空港直結ホテル泊。便利でいいわ。晩御飯は同じビル内の四川麻辣の蛙鍋。もう、びっくり辛くて〜〜〜。ダメかと思ったけど、頑張って食べたヨネ!やばかった。思い出したけで頭から汗出るも。
2024/05/05
5/5 イタリア最終日
ローマへ戻って、一世紀の橋へ。マーケットが行われているらしい。チンクエユーロということで一つ購入。旅の思い出に。
夕方、空港へ。最後に空港の食堂で食べたアンチョビの乗ったピザ美味かったなぁ。そしてイタリアビールともしばしお別れ。
2024/05/04
2024/05/03
2024/05/02
5/2 釣りは諦めボローニャへ
昨日より増して土砂降りのラ・スペイッツァの街を歩く。ほんとは港で釣りをする予定だったが、川が濁流になるほどの雨な上に、なかなか港にたどり着けない有様。あぁ、せっかくロッドを持参したけど今回は諦めます。なので街歩きして、ちっと焼き物のお皿を購入し、早めのランチをして街を後にした。そうそう、このランチはcafeがやっているお店でパスタなどおよそ半値の7〜9ユーロ。この価格帯のお店はファーストフード感が強く、出来合いのものを温めて提供してくれる感じのようだ。やはり15ユーロほどの店とはものが違った。そしてここから普通列車を乗り継いで4時間、ボローニャまで移動する。
2度目のボローニャ。前回はラヴェンナからミラノへ移動の途中に立ち寄って斜塔は去年まだ登れた。今回までの間に異変が起きて斜塔は入場禁止となってしまった。倒れませんように。
2024/05/01
5/1 ラ・スペイッツァからチンクエテッレ
朝7時すぎ、駅に併設された観光案内所はクローズしていて人気はない。
ホテルカッサダーネの朝ご飯は通りを挟んで階段を降りたところにあるカフェ『フェラーラ』。家族でれの先客が人組。好みのパンとカフェを選ぶと加えてフレッシュオレンジジュースがセットで出てきた。ラテン系のノリの店は、姉さんと男子の会話も弾んで楽しそうで、接客も同じテンションでしてくれているから朝の気分が心地いい。食事の量は正直物足りないけど、おそらく十分ではある。
あらためて8時20分くらに行くと店から溢れるほど人が。恐るべし世界遺産の入り口だと認識し、最後尾に並んで自分の番まで待った。欲しいチケットの種類を伝える。心配していたのはここラ・スペイッツァで購入するチケットがチンクエテッレとの往復も含まれているのかという点。これについて確認すると、含まれているというお返事!
身支度整えて、ジェノバ方面の列車へ乗り込んで数駅、エリア一番北の駅****で降りた。しかし雨。抜群な景色を眺めながらトレッキングするのが目的なのに。。雨。まぁこれも運命。
遊歩道が見つけられない。。
坂を登ったり降ったりしてやっとそれらしい道を見つけて、またその先も段階で。。すでに結構歩いてる。雨の中の遊歩道をゆく。数時間くらい進むと現れる村の可愛らしいこと。そこで、海の幸とパスタ! ボ、ボーノ!! まだ行程は先があるからワインはお預けに。
7時間20分、9.9km歩いて、ヘトヘト。。道中雨も時折ひどくて。カメラのファインダーが浸水してたけど、見ないふりしてたりして。。。
それにしても、街も雰囲気も、人の感じも、食事もワインも美味しくって、いいとこだったなぁ〜。いつかまた来れるだろうか。そんな時はこの村に宿泊するとより良さそうだ。宿は何軒か見かけたし。
2024/04/30
4/30 ローマからフレッチャビアンカでラ・スペイッツァへ
最近は色々事前に予約できていないと、長い行列に並ぶのが当たり前になっていて、だからヴァチカンは、諦めることにした。どの日もどの時間も予約でいっぱい。コロッセオのウェブページを見ると、オーディオガイドをセットしたチケットの数枠だけがかろうじて予約可能になっていたのでそこに滑り込んでみた。
壮大な建築。
2024/04/29
4/29 roma2
ローマへ足を踏み入れたのはイタリア4度目にして初。この街の有名スポットは人人人。
芸術学部生の同期Kさん一押しの教会へ出向いたところここはまるで違う空気感が漂い、通りから階段を降りると入り口に立つあやしい男が一人。彼に軽く会釈しファサードをくぐって建物中に入ると中にはたった二人の見学人のみ。外気とは打って変わって空気がひんやりしている。
絶好の環境。
薄暗い中にアプシスの絵が目に入ってきました。
キリストと金色のテッセラが散りばめれた十字架を中心に、上部には翼のあるライオンと翼のある雄牛がいます。マルコとルカでしょうか。そのさらに壁側にヨハネとマタイもいます。
さっきまでいた唯一の観覧者もすでに帰ってしまっていて、じっくり見たり写真撮ったりしているとさっきの男が声をかけてきました。
右側廊の突き当たったあたりに1ユーロを入れるとモザイクを照らすライトが付くことを教えてくれたんです。写真を撮るなら明かりをつけた方が良いという。
それで再度撮影しなおして、、、
その後、彼の好意で、鍵が開けられ左袖廊の天井画とモザイクも拝見。
そしてモザイクの近くと裏の礼拝堂を案内するからと、教会の入り口を施錠してしまった。閉じ込められた状況。。しかも誰も入ってくることのできない危険な香り。。ここはもうイタリア南部。。。
また別の鍵を開けて階段を登ると、パイプオルガンの部屋。そしてアプシスをすぐ横から見られるところだった。
後陣のモザイク (西暦 387 ~ 417 年)がすぐ目の前に!
彼が言うのは「顔の色や手の色をよく見てください。くすんでいるところは4世紀。明るい色の石は19世紀に修復されたのです」
ほんとだ〜。
そして、また違う鍵を開けさらに奥へ階段を登る。
裏にある礼拝堂のフレスコはそれなりに傷んではいますが、貴重なもののよう。
結局その男は、マリオ・アントヌッチさんといって、教会主というか、番人というか。
研究書籍「プデンツィアナの複雑な機能的変化を、西暦 313 年から325 年の期間まで遡及するという仮説」という本を書いた著者だった。それは購入した本に帰りがけサインをお願いしたことでわかったのでした。
現存するローマ最古のモザイク画を堪能。それは387 ~ 417 年のモザイク。
詳細は避けつつも、1588年に大規模改修ありその時にモザイクの破損箇所がフレスコに置き換えられ、
1831年にそのフレスコの埋めていた破損箇所のフレスコ部分は再びモザイクへ置き換えられたという。
2024/04/28
4/28 roma入り
ローマのフィウミッチーノ空港から鉄道で市内へ。テルミニに降り立つあたりは厳戒態勢(私の個人的な厳戒態勢)。ここからホテルまで襲われないでたどり着けるのかってこと。まぁ路上生活の人が駅前にすでにたくさんいて、その先の薄暗い通りにはもっといて。襲われることはなかったけど、気を抜いてはいけない感じなのはわかる。
今回trip.comでエアーも宿も初予約。そしたらね、予約時に宿泊者名を記載することに気づかずスルッと予約完了してたら、つれの名のみで予約されちゃってて。二人の条件で検索してたから大丈夫だとは思いたいけど、そこからホテルに連絡しようとしてもこのサイトからは電話のみ。イタリア語は無理なのでメールにしたいのに。。苦労して、サイトの窓口からリクエストって方法をとったホテルと、ホテルのサイトから直接メッセージという方法をとって二人で行くよって伝えたら、okわかってるよって返事が来たりしていた。焦るわ。
宿は駅から数分という好立地。
翌朝の屋上からの眺めはこんなです。
distagon 25mm |
2024/04/27
4/27 上海浦東
Duplex120 |
浦東国際空港に荷物を預けて上海市内に一泊宿をとってみた。
多分人生最初で最後だろうと思われる時速330キロくらのリニアに乗って、アリペイQR(日本にいたうちに登録に四苦八苦した。。)かざして地下鉄にスッと乗り換え、南京路駅から地上へ。ここは歩行者専用の買い物街なんだね。すぐに右に折れ公安と食堂の前を通り過ぎるとホテルの入り口はすぐだった。
手早く手荷物置いて街へ出て、上海の象徴的景色を目指す。
歩行者天国は人人人。人だかりに目が止まって誘い込まれると、フードコートみたいな色々食べ物屋の入った空間。焼いたの、煮たの、蒸したの、色々あるねぇ。で、あっ、さっきから聞こえていた中国歌謡、生歌だよっ、かわいいピンクのワンピース来たきれえな姉さんっ、頑張ってるなぁ。なので、姉さんの前に席を確保して、串焼きのタコと牛肉脂腸麺というものを食す。うめぇ。だしも、具材もうまいです。すごいなぁ、中国。みんな客も楽しんでるし。これらもアリペイで簡単支払いができるし。でも、ビールがぬるい。。
全てに活気がある。
朝、あてもなく歩いてみた。人は少ない。機械屋さんとか並んだ職人街らしきところの食堂で朝ごはんを。ここでも飲茶と麺。ここもうまいし、おねんさんの対応も優しくって助かったなぁ。
上海上陸には普通VISAが必要。そんななか空港によるみたいだけど浦東はトランジットでの時間制限の入国にvisaが免除される仕組みがあっんだよね!それがとってもよかった。
そして次の飛行路はロシアの上空をを飛んでヨーロッパへ向かうのでなんとも微妙な気持ちにさせられる。私の小さな寄付はウクライナへ向けたものだったから。。
2024/04/21
4/20 初顔合わせ
4/1から必修授業の受講開始できるので視聴ものからはじめてはいたが、専門領域のゼミは初日である。シラバスのとおり準備を進めていたのに、いざはじまると自己紹介が加わり、持ち時間も減って、発表順番まで資料再構成などでバタバタしてしまった。ほかの方々は澱みなく自身の輝かしい経歴と研究内容を述べていて、これまでやってきたことを自己肯定へ繋げてここでより高めようという方たちが目立った。自分は自信のなさの克服と作品基盤づくりなので、底辺の底上げに関わる研究を目指す。大学院のゼミはm1m2合同なのでやりにくさ二倍だけど、ここから最短2年間の研究を共に進める。
自分にできること、いや、じぶんが進めるべき研究課題の明確化。次の発表までにまとまりのあるものにしたい。
2024/03/28
3/28 腎臓摘出から4年半
腎臓を一つ摘出してから四年半が経過し、半年ごとの経過観察日なので早起きして市立病院へ。左腕から採血、尿検査、そして1時間後に造影剤を使うCT撮影。この造影剤用のぶっとい針と、薬剤が体にまわる感じはどうも慣れない。
m先生、「問題なしっ」と。ありがとうございます、ほっとしました。
しかもCrの値が、腎臓二つある人の基準内へ今回初めて収まった。右だけで頑張ってくれている証。大切に、大切に。
2024/03/17
3/16 通信教育課程芸術学部芸術学科芸術学コース 卒業
バスを降りて正面の階段を上る。そこからさらに卒業会場へはずいぶんたくさんの段数の階段。瓜生山にあるキャンパスが山の斜面に立っているのを多分初めて実感した。三年前の入学式には来ていないのでこの階段を登るのが初めてなのは、スクーリングなどで何度か登校していたが土日は正面が閉まっていて登れなかったので。昨夜の前夜祭に続いて、今日も会場入りする前にOさんに会えた。おかげさまで恐れていた孤独感は和らいでいる。感謝。
卒業式がどんなものかなどという記憶はほとんど消えている。なぜならそれはおそらく35年前が最後だから。周りが皆同士とへ言葉を交わし騒々しいがやがて開式が促されると静かになった。校長の言葉や、来賓の祝辞を受け、和太鼓の演奏が始まった。ずんずんと全身に響いてくる演奏を聞いているうちに、なぜだろう涙がじわり。
ちょっとクールに構えていた自分だったけど、実際には入学から卒業へ向けて学んだ事は多くあり、レポートを書いては試験を受け、スクーリングを受けてはレポートを書き、果たして自分にはできるんだろうかと疑問を持ちながら始めた卒業論文は完成までに1年半かかっている。常に追い詰められていてあまり実感をしていなかったけど、じわりと涙が出るほどやはり自分なりに頑張ってきたのかもしれない。それがじわり涙となってあらわれた。
分科会では、卒業証書が一人ひとりに江本先生から渡され、その後それぞれが一言のべる場面があって、最短の2年でやりきった方、たいへん長い時間を要した方、在学中の生活の激変に悩まされた方、若い頃のトラウマを乗り越えた方、多くの生徒がそれぞれたいへんな思いで一つ乗り越え卒業を迎えたことを聞くことができ、また励みにもなった。みなさん卒業おめでとうございます。
そして自分へ、ひとまずおつかれさま。
2024/03/06
3/6 選考の結果
道北での撮影が無事終わって16時、帰路に着いた。そう、今日は朝から6灯必要な大掛かりな撮影だったことに加えて、学びの場の結果発表日でもあった。資料の締め切りがブレゲンツへ旅立つ前だったので、そこまでにまとめてサーバアップと一部郵送のものを発送しておいた。
「あなたが研究したいことを明確に」
この問いに現状最も興味のある「空中像」についいての研究であることをプランした。もしかして入学してから別テーマや写真論への変更もありうるけど、現状思い入れも強くてうまくプレゼンテーションできそうなテーマに絞って挑んだおいた。
撮影でバタバタしているなか、11:32にメールが受信されていた。表題が『入学選考結果について』。いや〜ドキドキ、本文見ないと内容がわからない仕掛け。
「芸術研究科入学専攻において、合格しましたので、通知します」
おぉ、合格。これを始めるとまた最低2年は悩み続けることになる。思いきってはじめるか、辞退するか。早急に判断しなくては。
2024/03/04
3/4 卒業判定
待ちに待った判定日。朝から待つものの学校マイページにある成績欄の卒業判定は「 - 」のまま。ん〜発表は昼くらいか。。。 午後1時、ついに「 可 」という表示へ変わった。これで通信制とはいえ大学での三年の学びが一区切りとなった。あぁ頑張ったなぁ。
この年齢で卒業式に出席することがあるとは数年前にはまるで考えていなかったし、なかなか無い機会だから出席のために旅の予定を固めた。最初の2年はそれぞれの学び全てに追われ、最後の一年は論じることの責任や丁寧な説明に苦しんだ。でも、こうして終わってしまうものなんだなぁ。
三年間にいろいろなことを学んだんだけど、いろいろ忘れてしまっていて論理立てて語れることは特にないと思う。ただ、歴史の流れへの関心や、表現されていることへの興味の幅は広がった。そして表現について深く深く研究している人達がいることを知った。
自分のエデュケーション欄、 ”芸術学部卒業” という一行が増える。
2024/02/26
2/26 Bregenz, Back home 2
2024/02/25
2/25 Bregenz day4, Back home 1
九時、予約しておいたユーロシティEC198が定刻ホームへ滑り込んできた。こちらの列車はブレゲンツとズゥリヒ空港を結ぶエアポート連絡列車のようだったけどすでに乗客はおり、大陸のどこからきたのだろう。ECはその名の通り国境超えの大陸横断特急なので、主要駅のみに停車するタイプ。しかしとにかく外観が洗車後のようにピカピカで、イタリアのフレッチャロッサやイタロに美しさでとっても差をつけている。列車は我々をのせるとすぐにライン川を越えスイスへはいった。数日前に滞在したザンクト・ガレン、そしてズゥーリヒ国際空港まで1時間15分ほど。そいえば、ザンクト・ガレンからユニークなおじさまが同じ客車のおとなりの席へ乗り込んできた。ふた席を埋めるクジャクのような帽子と、おなじ素材感の衣装を纏っている。全身みどり。謝肉祭への参加だとメモを見せてくれた。
スイスの空港ビルはスーパーが2軒はいっていて最後の買い物にちょうどよいのだけど、スーツケースは行きのときから余裕はすくなく、泣く泣くあまり買い込めずにパッキング完了。でも、アヒルとかニワトリの置物的立体チョコレートはペットボトルを加工して大事にしまいこんでいたりしている。ターミナルで最後のスイスビールもうまかった。でも、どうもこのあたりから結構体調不調でね、喉がいたいし疲れもひどい。あぁ。これから6時間のフライトでドーハへ、そこで7時間程のトランジット、こんどは羽田行き11時間ほどのフライトのあとに8時間のトランジット。。。
下の車窓の風景は、ライン川の右岸オーストリアと、左岸スイス。河畔や護岸の違いが興味深い。
2024/02/24
2/24 Bregenz day3
駅、郵便局、美術館、商店街、歴史的城跡、野外オペラ会場、湖どこへでも歩いて行けるこぢんまりした街ブレゲンツ。そしてこのまちにも高所から街を見下ろす方法があって、それはプフェンダーロープウェイ。もちろん乗り場へも歩いて行けたし、駅を目指していると、歩道に「プフェンダーはこちら」というプリントが点在しているので安心して向かえる。
待合室では一緒になったゴールデンレトリバー君に気に入られ、なぜなぜしてたらべろべろしてかんげいしてくれてとまらなくなっちゃった。。洗礼をうけ山頂へ。同乗した家族のおとうさんは、あっちに山羊や鹿がいるし、反対側の建物はカフェだよって親切におしえてくれた。やまの上はすこし小雪がぱらついていて、それで積もるようなけはいはない。ここには黒白のネコがまっていた。じっと見つめてみると、走り寄ってきて、スウリスリ。つぎは猫の洗礼。。あまりかまってもらうとアレルギー反応がでそうなのでこのへんで。ありがとう。ちなみにこのロープウェイで登ってくると1000mを超えている標高なんだよなぁ。街も湖も、振り向くとスイス方面の山も谷も、そしてライン川を見渡せる。
色々提案できるような準備も必要そうで、ブラッシュアップが必要なのか、このままでなくてはならないのか。石橋さんからは、常に売れるよう形にしておきすぐに提案できるといい、という意見も頂戴したし。課題も多く残した私の会場滞在最終日であった。
夜はギャラリストにお誘いを受けディナーをご一緒させていただいた。わたしは子牛のスモークにツナソースがけのアペリティフと軽めに。横の人はシュニッチェルというオーストリアの郷土料理を一昨日に続いてリピート、そしてお店せ自慢の大盛りデザートでシメ。今夜でお別れである。長いようであっという間に過ぎる時間。私らはあす九時の列車に乗る。マルティンさん、こんかいの経験をさせてくれてありがとうございました。かるく抱擁し、お互い暗い夜道をそれぞれの方向へあるき別れた。次のための準備が必要なんだとかみしめる。